【おー昔はこんな感じだったのね!?】ネッキャン発足以前のエピD

目次

メンバーエピソード

星野彩美(15歳当時)

2008年3月29日

バイバイ「桃夢はるの」

登場人物

星野彩美
(15歳当時)

星野彩美

「はるのちゃーん!」

「はるのーっ!」

「はッるのッ!はッるのッ!」

ここは関西屈指の大ホール。
観客席からのカーテンコールは、いつまでも鳴りやまなかった。

今日は「桃夢はるの」の引退公演最終日。

まだ15歳という若さで、ムーンショウ劇団を卒業してしまうのを、大勢の観客が惜しんでいた。

ホール

「はるの」の目に涙はなかった。

演劇は好きだが、他にもやりたいことや挑戦したいことがあり、劇団に所属するのは中学までと最初から決めていたからだった。
そしてそのことは、昔から公になっており、観客も皆、分かっていたことだった。

だからこそ「はるの」は、最後まで喜劇役者らしく、笑顔とおどけたポーズで様々な声援に応えた。

その躍動には、9年間やりきった充実感と、これからの長い人生への希望が表現されているように見えた

「私、普通の女の子に戻りまーすっ!」

何度もそう叫んで、観客席に手を振った。

そう。彼女は1週間後には、高校の入学式を迎える。
本名である「星野彩美」に戻って。

星野彩美がムーンショウ劇団に入ったのは小学1年生の夏だった。

きっかけに大きな意味はない。
劇団員募集のパンフレットを見て、楽しそうだったからに過ぎない。

半年間の研修と稽古を経てからは、「桃夢はるの」として様々な舞台に出演した。

元々が器用で、物怖じしない性格だ。

共演する人には、誰であろうと素直に教えを乞いに行った。
練習熱心で、周りに感謝する姿勢もあったおかげだろう。
大勢の劇団員やスタッフからかわいがられた。

そして「はるの」の代名詞と言えば、上手い下手を超越した、思い切りのいい演技だった。

並外れた集中力を武器に、没我して役に憑りつかれたその様は、観客の目を釘付けにした。

だからこそ早々に「天才子役」や「泣きのプリンセス」の称号を与えられたのだった。

星野彩美

怖いもの知らずで、演技が楽しいだけだった「桃夢はるの」。

そんな彼女に挫折を味わわせたのは「喜劇」だった。

演技の幅を広げるため、中学生になって初めて喜劇に挑戦したのだが、これがとにかくひどかった…。

初公演では誰も笑ってくれず、「こんなにスベリまくった喜劇は初めて見た」と酷評された。

【舞台に立つのが怖い…】

「はるの」は初めてそう思った。

舞台 星野彩美

期待に応えられなかったのは、周り以上に本人が甘く考えていたせいもある。
「笑い」には自信があり、謙虚さが足りなかったのだ。

家族や友人の中でスベり知らずだったのは、たまたま恵まれた温室だったおかげであり、本当の実力でないことに気付けていなかった。

実際、笑いは難しい。

いざ、「目の前の人を笑わせて下さい」と言われた時、果たして何人がクリアできるだろう?

加えて、思春期に入った彩美には、多少の照れも見えていた。

笑わせることは好きな「彩美」でも、「はるの」が笑われることに、多少の抵抗が出てきたのだった。

言うまでもないが、これら減点要素を隠し通せるほど、演技の世界は甘くない。

星野彩美

周りからは、「胸が痛くて見ていられない」と同情された。

喜劇を離れて、これまで通り「泣き」の演技を続けるようにともアドバイスされた。

しかし、彩美は生粋の負けず嫌いでもある。

むしろ逆に、喜劇作品を見まくった。喜劇の世界にどっぷり浸かった。
さらには、寝る間も惜しんで様々なジャンルの笑いについても勉強するようになった。

喜劇の笑い。

それは、偶然やハプニング的に生まれる笑いとは根本的に異なる。
そこにはいくつもの心理的な方程式が存在するのだった。

例えば、構造やタイミング。
それらを緻密に計算した脚本があり、実際に演じきる技術が必要だった。

また、1人でがんばる性質のものでもない。
一緒に演じる仲間たちとの協力やチームワークも、笑いに影響を与える。
さらには「場の空気」も大切で、その意味では観客の人達ですらチームに含まれる。

そう。まさに、それらチーム全員を導いていく力が、主役である「はるの」には求められているのだった。

星野彩美

事実は小説より奇なり?
いや、現実は小説より厳しいなり、だ。

努力し、勉強するほど「はるの」は迷走し、演出家の先生は頭を抱えた。

公演の赤字も膨らみ、中止を促す声も出始めた。

結局、結果が少しずつ出始めるのには1年もかかったのだ。

少しずつ観客からの声援も増え始め、さらにその1年後には、「はるの」は「喜劇嬢」と呼ばれるまでになった。

そう。今や喜劇と言えば「桃夢はるの」なのだった。

星野彩美

人生とは、つくづく面白い。

「はるの」が軌道に乗るほど、今度は「彩美」が難しくなるのだから。

いや、これは彩美に限らず、皆、通る道かもしれない。
誰しも子供の頃は感じなかった葛藤や自己責任の数が、中学生ともなると増えていくものだ。

友達との些細な言い争い、成績のプレッシャー、将来への不安、親との意見の食い違い…。数え上げればキリがない。

【あれ?人生ってこんなに難しかったっけ?】

彩美は何度も首を傾げたものだ。

そしてあまりに考え過ぎて、眠れなかった明け方のことだった。

脳が疲れ果てて呆然としているところへ、これまで「はるの」がお手本にしてきた喜劇王チャップリンの言葉が、ふと流れ込んできた。

「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、全体像で見れば喜劇だ。」

彩美は思わず苦笑した。

【そうだった、人生も喜劇だったんだw】

喜劇なら今や得意分野に入る。

彩美は、日常のどこをどういじれば面白い喜劇になるかを自分なりに検証してみた。

脚本、演出、主演、それらを1人でこなすことになるので、労力は格段に増えた。
リアルではまだ初心者のため、上手くいかないことのほうが多かった。

それでも彩美は、笑いを探求することを止めなかった。
少しずつ自分の言動を変え始めていった。

「愛と笑いのない人生では生きる価値が半減する」との信念を胸に。

星野彩美

舞台は、再び「桃夢はるの」の最終公演に戻る。

異例とも言える、長く続いたカーテンコールもようやく終わるのだ。

ゆっくりと、最後の幕が降り始めた。

歓声と拍手が一段と大きくなった。
舞台の袖では、多くの先輩や仲間が拍手をしてくれている。

【私は、こんなに大勢の人達に支えられ、育ててもらってきたんだ】

さすがの「はるの」も神妙な顔つきになり、頭を深く下げた。

劇団員の人達にも観客の人達にも感謝の想いで一杯だった。

「これまで、本当にありがとうございましたー!」

それは確かに全員がウルっとくる絶妙なタイミングであり、最高のフィナーレになるはずだった。

…が、「はるの」はそれを全力で否定するかのように、目と口と鼻を大きく開いた。
すぐさま全身を使って大きな万歳をした。そして力一杯叫んだ。

「リアル喜劇王にーっ! オラはなるーっ!」

これが本当に最後のパフォーマンスだった。

幕が降り切るまで、小さな体は胸を大きく張って立ち続けた。

星野彩美

舞台は完全に終幕した。

しかし多くの観客は、不思議な感覚の余韻に浸っていた。

幕が降り切るまでの間、「はるの」の終わりと「彩美」の始まりを同時に目撃していたのだった。

寂しさで泣きそうになっていた人達も、「仁王立ちパフォーマンス」によって、強引に笑顔へと変えさせられた。

希望を携えた、明るい引退公演。
こんな形もあるのだと、多くの人がじんわり思いを馳せた。

「さようなら…」というよりは、「バイバイ桃夢はるの!」「がんばれ、星野彩美!」という感覚に近い。

彼女の新しい門出を、皆で笑って送り出せた充実感すらある。

だからこそ皆、「いかにも桃夢はるのらしい引退公演だった」と微笑みながら、また口々に語り合いながら、家路についたのだった。

-f i n-

毛利悠介

桃夢はるの…。そんな過去があったんですね。関西では有名な子役さんだったんでしょうか?

神楽坂美咲

昨日のアレも喜劇としての演技だったら、彩美は大女優ね

佐々木拓海

今からでもいいんで、サイン下さい!


渡辺皇海(0歳~28歳)

2022年10月22日

渡辺皇海の秘密

登場人物

渡辺皇海
(0歳~28歳)

渡辺皇海

渡辺皇海は、28歳になった今でも、アニメキャラ「ウーパー」のグッズを持ち歩くことがある。

ある時はハンカチ、ある時はプロテイン入れタッパー、ある時は手首を守るリストバンド、またある時は、滅多に見れない下着(トランクス)。

クールで厳しい表情ばかりの皇海とウーパーの組み合わせは、ミスマッチというより誰もが目を疑ってしまう。

ただ、それを見つけたネッキャンメンバーが、質問したり突っ込むことはなかった。
稀に、出雲美紀が「ギャップ萌えですぅ」と1人テンションを上げることはあるのだが、皆、何となくその理由を察していたからだった。

ウーパー

皇海には双子の兄がいた。

名前を空皇(そら)という。

皇海と空皇は、生まれた直後に骨形成不全症および先天性四肢欠損症と診断された。

染色体の異常にショックを受けた母親が体調を崩した状態で出産したため、どちらにも命の危険があった。

そんな中、2人は必死に生まれてきた。

渡辺皇海

皇海においては、生まれつき左手中指の第一関節から先が無い。

右手小指は短指で変形している。

右足の薬指が無い。

心臓や腎臓など、内臓は先天的な異常を抱えている。

それでも空皇に比べればマシだ。
彼はさらに症状が重く、集中治療室で過ごす時間の方が長かった。

いずれにせよ、2人は生まれてきてからも必死だった。

生きる努力をしなかったら死ぬ。
そんな環境の中で育った。

集中治療室

3年半後。

先に病院を退院できたのは、皇海だった。

もっとも、家に帰れても過酷なトレーニングが待っていたのだが。

日常生活を一人で完結させるため、基本的な動作を何度も繰り返し練習した。
理学療法士が週に3回自宅を訪れ、動かない関節を強引に動かし続けた。

激痛に泣き叫ぶ皇海を、両親は直視できず、文字通り柱の陰から見守った。

おそらく理学療法士も辛かったと思う。
プロ意識が無ければ、そしてこの先の皇海の姿をイメージできなければ、成し遂げられない仕事だった。

トレーニングは1年半で卒業できた。

それぞれの努力のかいあって、同じ年齢の子と同じようなことができるようになった。
見た目もパッと見なら、普通の子と変わらない。

両親の笑顔もそうだが、皇海が一番嬉しかったのは、自分の足で歩いて、空皇の待つ病院へお見舞いに行けたことだった。

渡辺皇海

皇海がお見舞いに通うようになって半年。

がんばり続けた空皇は5歳で亡くなった。

彼の人生は、最初から最後まで病院の中で、一度も自宅を見ることはなかった。
ただ頑張り続けただけの人生だった。

そんな彼が好きだったのが、アニメキャラクター「ウーパー」だった。

どんなに苦しそうな表情でも、ウーパーの画像を見たり、ぬいぐるみを手にしている時は、口元が微かに微笑むのだった。

ウーパー

双子には双子にしか分からない共有感覚がある。

空皇が亡くなることは、皇海だけは前日に分かっていた。
お見舞いに行った際、本人から聞いたからだった。

いや、正確には会話などできるはずがない。
空皇はずっと、集中治療室で酸素マスクをつけていたのだ。

しかし、皇海の頭の中では、まだ聞いたことのない空皇の声が響いていた。

皇海はその言葉を恐れ、集中治療室の外で気がふれたように泣いた。
誰が話しかけてもあやしても、ただ首を横に振り続けるだけだった。

そのため会話の内容については、誰にも話せていない。
…というより、当時5歳の子供には、そのテレパシー的なコミュニケーションを言語化すること自体が難しかった。

二人にしか分からない共有感覚。
当時は感覚的なモノでしかなかったが、5年後に、ようやく適切な言語候補を見つけられた。

「託された」もしくは「譲られた」と。

渡辺皇海

空皇の死後、皇海は自分が人並みに生きる目標では、足りないことを悟った。
兄の分まで努力することを誓った。

渡辺皇海。現在28歳。

ここまでの人生、努力に次ぐ努力の繰り返しだった。
その鬼気迫る姿勢は、時に誤解を招き、周りの人間を遠ざけることもあった。

「なぜそこまで…」
何百回と言われ続けてきた言葉だ。

そして現在。
まずまずの結果は出せていると言えるだろう。

小学生から始めたテニスはずっと初級クラスだったが、中学ではトーナメントクラスまで上がり、様々な大会に出れるようになった。

そして強豪校である「セントモリ高校テニス部」に入ると、高3のインターハイでは団体戦で優勝という成績を残した。

高校卒業後はプロに転向し、様々な大会を転戦する生活が始まった。

体にハンデのある皇海がここまでやるとは…。
正直、両親は想像すらしていなかった。

それでも皇海自身は、ずっと分からなかった。
どこまでいけば空皇に認めてもらえるのか、許してもらえるのか?

あの日、譲ってもらえたこの命を…。

渡辺皇海

現在、皇海を知る多くの人間は、彼が一人っ子だと思っている。
過去に、渡辺空皇という人間が存在していたことを知らない。

…であればこそ、皇海が「ウーパー」を身に着ける理由など見当もつかない。

「何でそんなかわいいウーパーちゃん持っているのー?」

これまで尋ねてきた人間は、数えきれないくらいいた。
しかし、皇海がそれに順序だてて答えることはなかった。

いや、20歳の時、唯一、秘密を打ち明けた人間がいた。
当時はまだ知り合ったばかりの人間に、全てを話すことができた。

あの日、空皇と交わした最後の会話の中身でさえも…。

その人物こそ、今も自分の体を隅々までケアーしてくれるトレーナー、隼賢介だった。

渡辺皇海

皇海は、隼賢介を全面的に信頼している。

出会った当初に、一度だけ反抗したことがあるがw、それ以降は素直に言うことを聞いていた。

実は、皇海は自分を不幸だと思ったことがない。
幸福や不幸とは別の次元で生きてきたからだ。

しかし去年、27歳の誕生日プレゼントを、隼ファミリーからもらった時は、「これが幸せなのか…」と唇を嚙み締めた。

修羅の道を進んでいた皇海には、想像すらできなかったのだ。
自分が3人から、両手では抱えきれないほどたくさんの「ウーパーグッズ」を渡されるなど。

さすが奥さんはよく気が付く人だった。

タオルにリストバンド、タッパーに水筒と、練習や大会でも使えるものをプレゼントしてくれた。(おそらくウーパーのプリントも控え目にしてくれた)

対する賢介は…、ちょっと天然なところがあるため、シャーペンやノートや下敷きや筆箱といった「ウーパー小学生セット」を山ほどくれた…。
今さら皇海が使うことはなかったが、部屋に大切に飾ってある。

息子の翔太くんがくれたのは、お尻にウーパーがプリントされたトランクスだった。

ウーパー

なぜだろう?
その走るルーパーが皇海の心に刺さり、一番のお気に入りとなった。
大事な試合になると、皇海は必ずそのトランクスを履くのだった。

ちなみに皇海は、試合の後、必ず空を見上げる。

晴れでも曇りでも、勝っても負けても、どんな規模の大会だったとしても、「ありがとう。がんばってみたよ」とお礼を言うのだった。

空皇に向かって。

渡辺皇海

渡辺皇海とウーパーの話は、以上だ。

彼が過去の秘密を公開するなど、少し前までは考えられなかった。

高見宗太郎によれば「自己開示」というらしいが。

逆を言えば、それくらい皇海は今、大きな岐路に立っていて、自分の運命が少しずつ変わり始めているのを感じていた。

神楽坂美咲ならば、先を予測できるのだろうが、皇海は1ヶ月後の自分がどうなってしまうのかすら、想像できなかった。

しかし不思議なものだ。
行きつく先は分からなくても、皇海に不安はなかった。

隼賢介が紹介してくれた信頼できる仲間達に囲まれているからなのだろうか。
安心してこの傷だらけの身体を委ねることができていた。

-f i n-

白金春香

何となく皆で想像していた通りでしたけど、やはり壮絶な道のりでしたね

富士サスケ

悔しいけど命がけのレベルが俺より上だな…

星野彩美

わはは、今後のことは安心せぃ。わらわが渾身のギャグを伝授してやるぞぃ!


隼賢介(幼少期)

1987年4月4日

愛の中で育ってきた隼賢介

登場人物

隼賢介
(幼少期)

隼賢介

隼賢介。40歳。

現在、妻と息子の3人暮らし。

ネッキャンにおいては「3大菩薩の長男」と呼ばれている
(一部からは超天然とも呼ばれているが…)

彼をよく知る人間は、彼をさらに知りたがることになる。
どうやったら彼のように、優しくて慈悲深い人間になれるのかと。

答えは、彼だけを観察しても出てこない。

賢介の過去、即ち、育ってきた環境をひも解く必要があった。

隼賢介

誰しも2歳から3歳にかけては、自分が皆の中心で、世界は自分の思い通りになると勘違いをする時期がある。

賢介にもあった。
幼稚園の年少クラスの頃だろう。

上手くいかないと、かんしゃくを起こす回数が急に増えた。

ただ…、その第一反抗期は長く続かなかった。

我慢を強いられたわけではない。諭されたわけでもない。怒られたわけでもない。
日々、両親から感謝の気持ちを植え付けられただけだった。

例えば日常ではこんな感じだ。

 「おはよう。洋服屋さんのおかげでお服が着れるね。ありがたいね」

「おーい、お母さんが朝ごはん作ってくれたぞ。感謝して食べような」

「やったね。バスがあるおかげで遠いところにもお出かけできるわよー」

「ほら、店員さんが賢介の好きなポテトを持ってきてくれたぞ。一緒にお礼を言おうな!」

「お家があるおかげで、冷たい雨も強い風も大丈夫だね。良かったね」

「賢介、電気のお陰で、夜もお母さんに絵本を読んでもらえるぞ。ありがたいなぁ」

他にも数え上げればキリがない。

これらの言葉によって、賢介は自分が世界の中心にいるどころか、ちっぽけで何もできない存在であることを知った。

そして周りの助けで生きられることに感謝するようになり、いつの間にか第一反抗期も消滅したのだった。

隼賢介

年中クラスに上がる4歳になると、誰しも世界が少しずつ広がっていく。
家族だけでなく、友達の存在が、いよいよ無視できなくなるのだ。

幼稚園には色々な子供達が集まる。
意地悪な子もいれば、賢介の優しさを否定する子もいた。

賢介はひどく混乱した。

Aという親切をすれば、Bというお礼が返ってくるはず…。

そんな「賢介方程式」が崩れ去ったからだった。

困った賢介はよく母親に尋ねた。

「たかしくんが落としたクレヨン、拾ってあげたのに、何も言われなかったんだよ」

母親はまずは誉めた。

「えらいわね。その優しい気持ちを忘れないでね」

「うん」

「賢介は、お礼を言われなかったら、もうやりたくないの?」

「うーん…」

「もし賢介が、たかし君のクレヨンを拾わないで無視したら、賢介の気持ちはどんな感じ?」

「ちょっと気持ち悪いかなぁ」

「そうね。お母さんもお父さんもそうなのよ。だからこれからも拾ってあげてね」

「うん!わーっ!何かスッキリした!」

賢介が「情けは人の為ならず」という言葉と出会うのは、まだまだ先の話だ。

出会ったところで、誰しもそれを理解して実践するのは難しい。

だが彼は、この歳でその真意を会得したのだった。

隼賢介

賢介が年長クラスに上がった5歳。

そのタイミングで、庭のお花に水をあげる役割が父親から、水槽のメダカのお世話をする係が、母親からバトンタッチされた。

「お花は言葉が通じないけど、賢介を必要としているんだぞー」

「メダカさん、良かったわねー。賢介のおかげで元気に生きられますよー」

両親の応援のおかげもあって、賢介は自分の役割を全うした。

もちろん毎日の作業の中では「眠いし、めんどくさい」時もあった。

それでも最終的には、自分の欲求を我慢してでも行う価値のある「思いやり」を知った。

半人前の自分でも、弱きものの面倒を見てあげる充実感、命を生かしてあげる喜びを味わうことができた。

そう。賢介はこのあたりから、いよいよ隼賢介らしくなってきたのだった。

隼賢介

ほどなく、賢介の優しい気持ちは、少しずつ外の広い対象にも向けられるようになっていった。

 もちろん最初は両親の誘導ありきだ。
賢介は、常に両親に導かれていたのだった。

老人が道で止まっていれば、「賢介、おばあさんが進めずに困っているね。どうやって助けようか?」

強い風が吹いたら、「うわー、お外にいる人は大変だね。賢介のお友達も家の中だったらいいね」

救急車が通ったら「誰かけがをしたのかな、大丈夫かな?」

などなど。

おかげで賢介自身も、他人の置かれている状況を想像する癖が自然とついた。

例えば、幼稚園の先生も気付かない、お友達の僅かな様子の変化。

「A君、なにか悲しいことがあったのかなぁ…」

「B子ちゃんはそれ、嫌がっているよ」

皆に、優しく話しかけたり、なぐさめたり、先生に状況を教えてあげたりするので、驚かれ感心された。

そしてこれは幼稚園に限らず、この先もずーっとずーっと続くことになる。

今後、賢介の通信簿には「人を思いやる優しい心の持ち主です」「〃」「〃」が、漏れなく書かれ続けていくのだった。

通知表

賢介の両親は、我が子に様々な経験をさせたいと考えていた。

不完全な人間でも、経験して学習することで、より良く生きる知恵を身につけられるからだった。

ただ幼稚園児の賢介においては、「かわいい子には旅をさせる」にはまだ早く、「人を以て鑑となす」理解力もなかった。

そこで母親がとったのは、「読み聞かせ作戦」だった。

読み聞かせにはたくさんの利点があるが、母親の狙いは、よりたくさんの人物の人生を経験させることだった。

そのため、ファンタジー系よりは偉人伝を好んで選んだ。
主人公の人生を読み聞かせるだけでも、経験値になると考えたからだった。

幼い賢介は「読み聞かせ」の時間が大好きだった。
毎晩、主人公に成りきって喜んだり悲しんだりした。

しかし、小さな障害物もあった。
母親が時々、読むのを止めるからだった。

声のトーンも変わり、「この子は主人公の〇〇さんに断られて、どう思ったんだろうね?」と脇役である人間の気持ちも想像させたのだった。

物語を止められる賢介は、最初の頃こそ嫌がった。

「そんなのいいから早く読んでー!」と。

ただ母親の言う通り、周りの状況が見えてくると、話がさらに面白くなることに気付いてからは、文句を言わなくなった。

そんな読み聞かせは、3歳から6歳まで、ほぼ毎晩続いた。

つまり賢介は、小学校に上がる頃には、物語の登場人物100人以上の人生を、すでに体験していたことになる。

本

どの親も一度は考えるものだろう。

「子供を上手く動かすには、どうすればいいのか?」と。

テクニックとしては「アメとムチ」がある。
そして子育てならば「ほめ方」と「叱り方」に集約されるだろう。

ご多分に漏れず、賢介の両親も、誉めたり叱ったりしてきた。

全員にとって幸運だったのは、両親が同じ基準を持っていたことだった。

賢介にとっては誉められるポイントと叱られるポイントが一貫しているので、戸惑うことがなかった。

さらにそれは、賢介の友達に対してもブレなく行われたので、全面的に信じられた。

ただ、親の愛情を独り占めしたい年頃では、嫉妬もしてしまう。

「さっきミィちゃん、お婆ちゃんに手を差し出してあげたのよ、偉かったわねぇ」

「そんなの当たり前じゃん!僕だってできたもん!」とかわいらしく拗ねてしまうこともあったのだ。

隼賢介

基準は同じでも、父親と母親では叱り方に違いがあった。

「コラッ!」

父親の強い口調に、幼い賢介はよく身体を震わせた。

「賢介…お父さんは賢介を怒ったわけじゃないぞ。もちろん賢介を嫌いなわけでもない。お父さんは賢介に悪い事させた悪魔を叱ったんだ」

「悪魔?」

「あぁそうだ。悪魔よ、去れっ!」

「えっ?」

「ほーら、もう悪魔は逃げていったから安心していいぞ。全くこんなかわいい賢介にあんな悪いことをさせるとは、とんでもない奴だ」

「あははっ!おもしろーい!」

こうして翌日から、賢介の口癖に「悪魔よ去れっ!」が加わった。

幼稚園では、それを聞いていたお友達も面白がり、皆こぞって使いだした。

ただ、皆は「悪い人」と「悪いこと」の区別が分かっていない。

叱ってきた先生に向けて「悪魔よ、去れっ!」なので…、状況はさらに悪化したw

幼稚園児

一方、母親は、叱るというよりは、悲しむタイプだった。

ある日、賢介がスーパーからお菓子を取って、ポケットに入れて帰ってきたことがあった。

初めてのお使いどころか、初めての万引きとなる…。

賢介は、自宅でそれを見つけた母親から問いただされた。

「それ、取っちゃダメって、分からなかったの?」

「分かっていたけど、どうしても欲しくなっちゃって…」

それを聞いた母親が泣き出した。

「賢介はいい子だけど神様じゃないの。お母さんも残念ながら神様じゃない。だから時々、こんなダメなことをしちゃうのよ。悲しいことだけどね…」

賢介は心底、自分がした過ちを悔やんだ。

「ねぇママ、何で僕は神様になれなかったんだろう? 神様だったらママを泣かせないのに…」

「いいのよ。お母さんは神様になった賢介より今の賢介の方が大好きだから。お母さんこそ賢介にもっとよく教えてあげられなくてごめんね」

「ママ大好きだよ」

「ありがとう。これからもお互い悪いところを直していこうね」

もちろんスーパーへは、すぐ弁償に行き、2人で一緒に謝った。

隼賢介

悪いことは悪い。ただしその人自体は無条件に許す。

それが隼ファミリーのやり方だった。

果たして今の日本において、どれだけの人ができるだろう?

無条件に許す…。

それはもはや愛なのだ。愛がなければ許せないのだ。

賢介が許せる側の人間になれたのは、間違いなく両親の影響だろう。
特に中学から成人にかけては、よく周りから呆れられたり感心されたものだった。

「賢ちゃんってホントお人よしだよねー」

「賢介、よくあいつのこと許したなぁ…」

賢介に人を許せる力がついたのは、自身が長い間、許され続けてきたからに他ならない。

即ち、愛され続けてきたからに他ならない。

隼賢介

賢介は、両親の一貫した育て方により、今の隼賢介になれた。

確かに、そこには様々な理論やテクニックがあったのだろう。

それでも根源的かつ最も大切なのは、親の姿だった。

「子は親の背中を見て育つ」

何より親が最大のお手本であり、親をモデルにして子供は自分を動かす。

仮に、賢介の両親が口だけの親であれば、賢介は賢介になれなかっただろう。

賢介に努力をした記憶はないし、いい人になろうと意識したことすらない。
お手本の行動を親がとっていたからこそ、安心して賢介は会得できたのだ。

賢介の秘密は両親にあり。
それは西谷有希子も強く感じたことだった。

後の妻となる有希子においては、賢介の両親と交流してから、安心して結婚を決めたのだった。

隼賢介の両親

隼賢介40歳。

今や年老いてきた両親がやってきたことを、少しずつ引き継いでいる最中だった。

3年前からは、隼鍼灸整骨院の院長に。
2年前からは、地域イベントの運営ボランティアに。
最近では、地域の環境浄化活動に。

そして何より、息子の教育に。

父親は、今でもしみじみと賢介に語ることがある。
「判断に迷ったら、皆に貢献できる方を選べばいい。自分より家族、家族より仲間、仲間よりも社会全体。それで大きく間違わずにすむんだから、この方程式はありがたいものだ…」

一部からは偽善家族と陰口を叩かれても動じなかったのは、この感謝が根底にあったからだろう。

隼賢介

隼栄昭と隼裕美子。

賢介の両親は、信念と愛を持って賢介を育てあげその役割を果たした。

今はもう、孫である翔太をただただ猫かわいがりしているだけだが、昔は不安になることも、自分達のやり方が正しいのか分からなくなる時もあった。

それは当然とも言える。

子育てはどうやっても、親が操作的になる。
不完全な自分達が白紙の子供に色を付けていくなど、冷静に考えれば空恐ろしい。

幸い賢介は、両親の望み通り、思いやりのある優しい人間に育ったが、両親はいつも絶対の自信を持てずにいた。

そんな中…。

賢介が小学5年生の春だった。

もはや賢介は覚えていないのだが、両親にとっては忘れられない、救いのようなエピソードが起きた。

隼賢介の両親

その日、授業参観において、将来の夢を発表する場面があった。

周りの子が「サッカー選手」や「アイドル」や「お医者さん」だったのに対して、賢介の発表はとても地味なものだった。

簡潔に言えば、「職業はこだわらず、お金もそれほど欲しくなく、平凡に暮らせればいいですー」といった内容だ。

見栄も野望も欲望もない。

賢介らしいと言えばそれまでだが、先生ですらアクビをしそうな面白みのない発表が淡々と続いたのだった。

ただ最後の最後に、「絶対に譲れない条件があります!」と付け足した。

「僕は、大きくなったらお父さんみたいになって、お母さんみたいな人と結婚します!」と。

周りは一瞬静まり、その後、微笑ましい小さな笑いが教室全体に広がった。

賢介は、ただポカンとしていた。

そんな中、自分達の方向性が間違っていなかったことを確信した賢介の両親だけが、大号泣していたのだった。

隼賢介の両親

-f i n-

出雲美紀

愛。愛しかないお話でしたぁ

矢祭麻衣子

迷ったら多くの人に貢献できる方へ…か。確かに私の黒歴史は、99%エゴが絡んでいたような…

佐々木拓海

僕は最近分かってきたんです!天然の人に悪人はいない!


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