裕木清明
shape of heart
(2022年時点)
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裕木さんのイメージソングです(初期設定で音量が大きくなっている可能性があるので注意してくださいね)
聴きながら読むのもオツだヒュー
裕木清明さんのエピソード集です(読みたいタイトルをクリックしてください)
裕木清明(32歳当時)
裕木清明からメンバーへの挨拶
裕木清明
(32歳当時)
初めまして。
この度、ネットキャンバスのオブザーバーにさせて頂きました裕木清明です。
早速ですが、皆さんに言っておきたいことがあります。
僕は根っからのマイナス思考です。
ただのマイナス思考ではありません。
僕こそが、生き残ってきた「マイナス思考DNA日本代表」なのです。
想像してみてください。
3000年前から今日までの日々を。
楽観主義の人達はことごとく死んでいきました。
怪しげな木の実や毒キノコを、警戒なく食べては亡くなる。
つり橋を渡っている最中にはしゃぎ、綱が切れて命を落とす。
傷口を自己判断で放置したために、感染症から死亡する。
なぜ勝てると思ったのか…、クマに平気で襲い掛かり撲殺される。
数え上げればキリがありません。
そして僕達、石橋を叩いてきた慎重なDNAだけが生き残ったのです。
そもそも日本は、世界的に見ても生存に厳しい地域となります。
四季による自然環境の変化に対応しなくてはなりませんし、地震や台風など災害の数も圧倒的に多いのです。
そのため日本語自体、生活に合わせてマイナス語のほうが多く、世界各国の幸福度ランキングでも、常に下位に低迷する特殊な国民性を持っています。
日本人が基本的にネガティブなのは、TVを見ていても分かりますよね。
明るいニュースなんてスポーツくらいしかありません。
あとはくだらないか暗い話ばかり。
「猿も木から落ちる」
「出る釘は打たれる」
昨日まで持ち上げ称賛していた人が、何かミスをすると、こぞって皆で叩く村社会文化。
「泣きっ面に蜂」
「後の祭り」
事故や災害など不幸があった人に、さらなるマイナスが起これば、同情の意味も込めて視聴率が爆上がりする。
ピンとこない人もいるかもしれません。
だからこそ、これら全てに共感できる僕が、生粋の日本人DNA保持者なのです。
世の中に溢れるネガティブ。
それを真摯に見つめていくのが、マイナス思考だと僕は考えています。
逆を言えば、プラス思考や楽観主義の人達は、ネガティブな現実に耐えられないから、都合のいいプラスに逃げているのかな?と思う時もあります。
「幸福は弱く不幸は強い 」
これは 志賀直哉先生の言葉です。
色々な解釈があるでしょうが、僕は、「僕らマイナス思考軍団は、耐える力がプラス思考の君達とは違うんですよー」と捉えています。
確かにプラス思考は居心地がいいでしょう。
が、僕は逆に、それが不安となります。
【日常が楽で、結果も最高だなんて…】
そんなおいしい話はないだろうと僕は疑ってしまうのですが、皆さんはいかがでしょうか?
幸運の多くは、それが失われるまで知らされないものです。
言い換えれば、大切なものは、失って初めて気付くものでしょう。
僕は常に、日常が失われた時のことを想像しています。
心は当然苦しくなります。不快で仕方ありません。
僕は、仲間と楽しいドライブの最中でさえ、運転しながら「ここで対向車が飛び出して来たら、皆、死んでしまうな…」と考えることがあるのです。
もちろん、それを口に出してしまえば周りを不快にさせてしまうので、心の中で留めておきます。
しかし万が一、本当に対向車がこちらに飛び出して来たらどうでしょう?
僕はその準備ができているので、避けられる可能性が高まるのです。
皆と共に生き延びる率が上がるのです。
皆さんの言いたいことはよく分かります。
「こんなネガティブな奴と一緒に居たくないよー!」と。
これまで散々言われてきましたから。
「生きていて何が楽しい?」「何が幸せなんだ?」
それもよく聞かれてきましたが、答えは簡単です。
今の大切なものが失われずに済んだ瞬間が楽しいのです。
想像していた最悪の事態が回避された時が幸せなのです。
「良かったね。セーフだったんだよ」
「本当は失われてなかったんだよ」
その時の安堵感、幸福感、感謝の気持ち。
それがあればこそ、マイナス思考で生きる意味を体感できるのです。
長々とお読み頂き、ありがとうございました。
以上で、僕という人間の簡単な紹介を終ります。
今後、僕と交流する際、不快な思いをされる方も多いだろうと思いましたので、事前にお話させていただきました。
では、今日からよろしくお願い致します。
-f i n-
おいおい。なんかまたとんでもない奴がネッキャンに入ってきたぞー
オジキがそれ言います?w
渡辺皇海に続き、この人も生理的に苦手だわー
ただ、間違えたことは言っていないと思います。悪人の匂いもしません
引き継いだ十字架
裕木清明
(28歳当時)
1984年6月23日。
まだ昭和と呼ばれていた時代だ。
裕木錬太郎(23歳)は、目を開けたら人を殺していた。
果たして、そんなことがあり得るのだろうか?
誰がその現実を信じられるだろう?
気付いたら自分が殺人者になっていたのだ。
錬太郎が病院のベットでその事実を知らされた時は、皆が示し合わせて自分を騙しているのだと思った。いや、頼むからそうあってくれと願った。
しかし、自分の記憶に無くても事実は進行していた。
医者によれば、持病である1型糖尿病が関係しているとのことだった。
車の運転中に極度の低血糖症を起こして気を失い、人をはねていたのだ。
そう知らされても頭の整理はつかない。受け入れたくもない。
「夢なら覚めてくれ」
その感覚をエンドレスで味わっていた。
錬太郎の周りには、泣きじゃくる母親だけでなく、医療関係者や警察関係者など大勢の人間がいた。
自分も本当は泣き叫びたいし、1人にしてほしいのだが、社会はそれを許してくれなかった。
警察の話によれば、亡くなったのは、大学3年生。
前途洋々たる青年だったそうだ。
それを聞いた時、いよいよリアルと向き合わなくてはいけない覚悟が生まれた。
錬太郎は病院を退院すると、警察官が付き添う中、青年の両親のもとへ謝罪に行った。
しかし何せ、記憶がないのだから身に覚えがない。
実感が伴わないことをどう謝罪できるのか自分でも分からなかった。
それでも青年の両親の顔、希望の光のない目を見た瞬間に、途方もない罪の重さを感じた。
自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだと。
どんな言葉を絞り出したかは覚えていない。
ただただ精一杯、頭を下げ、今後自分ができることと、お墓参りも欠かさず行かせて頂くお願いをした。
謝罪が終ると、ずっと黙って聞いていた青年の父親が口を開いた。
「私達は辛すぎるので、もうあなたとはお会いしたくありません。お墓参りも結構です。あなたも、私達や息子のことは忘れてもらって結構です。多分、息子もあなたに十字架は背負わせたくないでしょう。皆、不幸になりましたが、この先も皆で不幸になることはないと思うのです」
「いえ、そんな…」
錬太郎の言葉をさえぎるように、今度は青年の母親が口を開いた。
「あなたの謝罪は今、十分受けました。私達があなたを許せるかは分かりませんが、あなたはもう自由です。これからもこの社会で存分に羽ばたいてください。そして息子の分まで幸せな人生を生きて下さい」
「ワーっ!ワーッ!」
感情の処理が追いつかず、堰を切った獣のような大声が繰り返された。
その後、号泣し続ける錬太郎を、二人の警察官が抱きかかえながら退出した。
2年後。
錬太郎は完全なる社会復帰を果たした。
早期に示談が成立していたことと、青年の両親の働きかけで実刑は免れ、執行猶予で済んでいたからだった。
様々な葛藤があったが、悔いるだけの人生は送るまいと決めていた。
幸せに生きるかは二の次で、あの家族に恥じない、できれば社会に貢献できる人生を送りたかった。
錬太郎は、できる限りの努力は続けた。
それでも総理大臣にはなれなかった。
会社の社長にもなれなかった。
画家にも歌手にも俳優にも、スポーツ選手にも小説家にも研究者にもなれなかった。
このままではいけない。
前途洋々だった若者に、これでは顔向けできないと焦燥の念にかられていた。
そんな錬太郎ができたこと、結果として行ったことは、計画的な離婚を3回繰り返して、子供を8人作ることだった。
3人の奥さんには全て事情を話し、納得してもらった上で、結婚と離婚の協力をしてもらった。
そして必死で働いた。とにかく馬車馬のように必死で働き続けることしかできなかったのだ。
そのお金で、8人の子供達にたくさんの投資をした。教育にできるだけお金をかけた。
錬太郎に趣味はなく、遊びもせず、無駄遣いもせず、情熱を子育てのみに傾けた。
ただひたすら、3人の元奥さんと8人の子供達に愛情を注ぎ続けた。
8人の子供達は、興味を示すものは殆ど体験できた。
勉強も運動も芸術も遊びも全て。
その中でそれぞれの長所を伸ばし、すくすくと成長していった。
子供達は、父親とたくさん会えない寂しさはあったろうが、総じて幸せだったのではなかろうか。
特に不満を口にすることもなかった。
では、廉太郎はどうだ?
彼の人生をどう評価すればいいのだろう?
廉太郎は、幸せだったのだろうか?
がむしゃらに生きた命は、58歳という若さで燃え尽きた。
多分、全てを出し切ったのだ。
3人の元妻達は、「家族に愛情を注いでいる時が一番幸せそうだった」と口を揃えた。
廉太郎は死の直前、8人の子供達を集めていた。
自らの35年前の過ちを伝えていた。
その後、涙を流しながら我が子達に懇願したのだった。
「どんな形でもいいから、社会に役立つ仕事を…」
「父さんが受けた恩を返すような活動を…」
「無能な父さんができなかった分、少しでもいいからしてくれ」と。
裕木清明が、父親のこの遺言を聞いた時、その年齢は28だった。
すでに、いい大学を卒業し、いい会社にも就職して、生活は安定していた。
しかしまだ、父親が望むことは、何一つできていなかったことを思い知らされた。
命を削ってまで自分を愛してくれた父親の遺志は尊重したい。
しかし具体的に、一体何をすればいいのだろう?
他の異母兄弟とも話したが、明確な道は見えてこなかった。
モヤモヤを抱えながら3年が経った。
母親からは、「今のままでもお父さんは喜んでいると思うよ」と言われていた。
そんなある日、行きつけのお弁当屋さん「Bサイン」で、ネットキャンバスというサークルの存在を知った。
「we help us each other」
そのキャッチフレーズが、心のどこかに引っ掛かった。
管理人である斎藤千歳に頼み込み、オブザーバーという安全な距離を保った上で、参加させてもらうことにした。
「自分が何をできるのか?」
「これから何をすべきなのか?」
それはまだ分からないが、当面は、この流れに乗ってみようと考えていた。
この場所にいれば、いずれ見えてくる予感がしていた。
フッw 流れ? 予感?
何とも不思議なことで、思わず笑ってしまう。
非科学的なことを一切信じない裕木清明にしては、極めて珍しいことだった。
-f i n-
なかなか衝撃的な話です…。
きっと優しいお父さんだったのでしょうね
そんなに難しい話じゃないような…。流れにのったのだから、後は動けばいいだけだと思いますけど。そんな遠くから眺めていないで…
お前は本当にリスクを負わない男だな。そこまでいくと清々しいわ
買い物に行ってきましたが…
当時の日記より
暑い。とにかく暑い。
買い物から手ぶらで帰ってくると、真っ先に水を飲んだ。
欲しいものが全部売り切れだったため、今日は傘を散歩させただけの日になってしまった。
悔しいというより、何をしても上手くいかない自分が情けない。
まぁ、傘は久しぶりに外に出れたので、朝のお天気キャスターに感謝していることだろうが…。
汗まみれのシャツを着替えてベランダに出ると、ようやく灼熱の太陽が沈みゆくところだった。
しばらく眺めている内に、先ほどとは異なる複雑な感情が芽生えてきた。
うーん、分かりやすく言えば、太陽を含めた世の中の全てに「お疲れ様!」と言いたくなる感覚だろうか…。
僕にとってはツイてない日でも、世界は何も問題ないと素直に思えた。
それに…この汗だくの徒労感も悪くない。1日がきちんと終わった充実感がある。
よーし、明日の朝もチャンネルは変えずに、新人キャスター、カグラなんとかの言葉をもう一度信じてみるかっ!
-f i n-
わざわざ9年前の日記を投稿してきたのは、TVで見ていたキャスターが同一人物なのか確認したいんだニャー
本人に直接聞けないのが裕木さんらしいワン
夏の太平洋高気圧に寒気が流れ込むと大気が不安定になります。そんな日は「雨が降らないから傘は必要ありません」と断言することは難しいんです。ごめんね、大学生だった頃の裕木ちゃん。そしてドンマイ、大学生だった頃の私…
人を疑いすぎる悪い癖
当時の日記より
僕には、人を疑いすぎる傾向がある。
これはもう昔からの悪癖で、「慎重」や「リスク回避」の範囲を超えてしまっている。
周りにも不快感を与えてしまうので治したいのだが、未だに出てしまう。
ネッキャンに入ってもそうだった。
哲也さんが僕のラインに返信しないことに不信感を抱いたが、締め切り間近で忙しかっただけだと後ほど分かった。
美紀さんが自分のことを避けているように見えたが、実際は彼女が内向的な性格であるためだと分かった。
獅子王丸さんが待ち合わせでなかなか来なかったために、軽んじられているのではないかと疑ったが、実際には獅子王丸さんが盲導犬に出会ってしまい、電車を一本乗り過ごしたからだと分かった。
悠介が僕の話を聞いていないように見えたため、会話中にその不満をぶつけてしまったが、実際は…「本当につまらない!」と指摘された…。
本当に失礼な奴だが、どうすれば面白くなるかを教えてもらったのでよしとしよう。
高見先生からは、これまで裏切られた体験が多かったせいではないかとアドバイスされたが、特にそんなこともないので、実は先生の言葉も疑っている…。
ただ、このままネッキャンのメンバーといれば、次第に落ち着いていくとも言われたので、もう少し様子を見ることにした。
皆さん、もう少しお待ちくださいね。
-f i n-
長老の言う通り、最初に清明さんを見た時は、虐待を受けてきた子犬みたいな目をしていたよ
一刻も早く信じる気持ちの方が強くなるといいですね。そうすればもう少し肩の力も抜けると思います